ドラフト1位で入団しても、実績が残せなければクビを切られるのは他の選手と変わらない。
そして、小さいころから野球一筋で生きてきたぶん、社会に放り出されたときには人一倍の苦労が待っている。
野球やめたら「ただの人」
今年も、4球団競合の根尾昂(中日が交渉権獲得)を筆頭に、12人の「ドラフト1位選手」が誕生した。
毎年、80人あまりがプロ野球の門をくぐるが、彼らはそのなかでも実力、人気ともに別格の「野球エリート」たちだ。球団からは三顧の礼をもって迎えられ、世間からの注目を一身に浴びる。
眩いばかりのフラッシュのなかで監督とがっちり握手を交わし、満面の笑みを浮かべる彼らの姿を見ていると、その将来はすっかり約束されているかのように思える。
だが、現実は厳しい。'07年、6球団が1位指名して話題になった大場翔太(元ソフトバンク)はすでに戦力外となり、
'10年に6球団が競合した大石達也(現西武)、4球団の斎藤佑樹(現日本ハム)も、期待された成績を挙げられぬまま30代を迎え、チームでの立場はおぼつかない。
そして、球界を去って「ただの人」になったドラ1たちを待っているのは、野球の世界とはひと味もふた味も違う、実社会の荒波だ。
斎藤、大石らと同世代の元ヤクルト・増渕竜義(30歳)もその洗礼を受けた一人だ。
埼玉県立鷲宮高校出身の増渕は、'06年の高校生ドラフト会議の目玉候補だった。
ヤクルトと西武が1位で競合した末に、古田敦也監督(当時)が当たりくじを引き当て、親指を高々と突き上げた。
契約金は8000万、年俸は800万円(いずれも推定・以下同)。増渕はヤクルトレディをしながら育ててくれた母と、指名を喜びあった。
1年目のオープン戦から結果を出した増渕は、高校生投手としては異例の開幕ローテーション入りを果たす。
だが、徐々に調子を崩し、ようやく初勝利を挙げたのは10月。その後、中継ぎとして活躍した年もあったものの、'14年に日ハムにトレード移籍。
その後は一軍登板すらないまま、'15年に戦力外通告を受けた。実働7年の一軍通算成績は15勝26敗。将来を嘱望されていたドラ1としては、あまりにもさみしい数字だ。
「自分の実力に限界を感じていたので、心の準備はできていました。その後、トライアウトも受けようとは思わなかった」
無職となった増渕は、しばし「自分探し」に精を出した。時には知人の紹介で焼き肉屋や運送業を手伝ったこともあったという。
「仕事の過程で、いろいろな人を紹介してもらったのですが、目上の方との会話には困りました。
瞬発力と元気が勝負の体育会の上下関係とは、コミュニケーションのとり方がまったく違う。
失礼なく接することができても、今度は何を話していいかがわからない。野球の話を振ってくれれば楽ですが、それ以外の話題は間が持たず、言葉に詰まってしまう。野球以外の情報を取り入れることを意識しました」
戸惑いながらも視野を広げる努力を重ねた増渕はいま、地元埼玉で子供向けの野球スクールを運営している。
「引退して普通に働く経験をしてみて、つくづく自分は野球しか知らないことを思い知らされました。
逆に、とことん野球で生きていくしかないという覚悟も生まれた。自分が持つものを子供たちに伝えていく仕事に、生きがいを感じています」
http://news.livedoor.com/article/detail/15821121/
2019年1月2日 12時0分 現代ビジネス
久々の埼玉公立の星だったんだがな
ちなみに、会社での巽の年収は約350万円でボーナスはなし。入団時に契約金1億円、年俸1500万円の待遇を受けていた巽からすれば、雀の涙のような金額だろう。
「確かに、もっといい条件の職場もあったのかもしれません。でも、いい年をした男に、挨拶ひとつからていねいに教えてくれる環境はなかなかない。
人生で初めて、おカネを稼ぐことの大変さも教えてもらった。会社には感謝しかありません」
現在、その会社を辞した巽は、ゴルフの室内練習場でアルバイトをしながら、次の夢を追っている最中だ。
「体の大きなアスリートが着られる服のブランドを立ち上げたいんです。普通のお店のXLサイズでも、僕たちからしたらちょっと小さくて、直さなければ着られない。
まずは、ネット通販のサイト開設からコツコツ始めたいと思います」
増渕や巽のように、一度野球を離れた元選手が、自らの限界を知り、スポーツ関連の職業に活路を見出すケースは多い。
だが、球団とも、スポーツとも関係のない場所で、長年奮闘している元ドラ1もいる。
首都圏に24の店舗を構える不動産賃貸売買仲介企業「CLCコーポレーション」の川崎支店。
ここで、マネージャーを務めている細見和史(45歳)も、その一人だ。
同志社大学時代は通算18勝を挙げ、'95年のドラフトで横浜から晴れて1位指名を受けた。
提示された契約金は1億円、年俸1200万円と、大卒ルーキーとしては最高の待遇だった。
将来のエース候補に対する、球団の期待がうかがえる。
「もちろん、1年目から『やってやろう』と意気込んでいました。
でも、なかなか結果が出ずに二軍暮らしが続いて、4年目には椎間板ヘルニアを患い、リハビリの日々が続きました」
細見が、先発としてようやく初勝利を挙げるのは、入団5年目の'00年。
広島相手に6回を無失点に抑えた。
お立ち台でこらえきれずに号泣する細見の姿は、スポーツニュースで大きく取り上げられた。
「大学時代にピッチングを指導してくれた布施健次さんというコーチがいたのですが、僕がファームでくすぶっている間に亡くなってしまった。
『あとほんの少し早ければ、布施さんに恩返しできたのに』と考えたら、涙が止まりませんでした」
恩師に活躍を誓った細見は、この年5勝を挙げ、'01年には3歳年上の夫人との結婚も果たす。
挙式では、森祇晶監督(当時)が挨拶に立ち、「小宮山(悟)の穴を埋めるエースになって欲しい」と発破をかけた。
だが、ついに細見が「ハマのエース」になることはなかった。
'01年以降は1勝も挙げられず、'02年のオフに西武へトレード。
ほとんど登板機会のないまま、オフに解雇される。その後、阪神にテスト入団するも、またしても1年でクビになった。実働5年間の通算成績は5勝9敗にとどまる。
もがき続けるしかない
「野球をやめてすぐに、知人から不動産会社設立の話を持ちかけられ、貯金を元手に出資して役員になりました。
横浜からスカウトの仕事も打診してもらったのですが、すでに事業を開始していて後戻りはできなかった」
右も左もわからぬままに飛び込んだ不動産業界で、細見は自身の力不足を痛感する。
「当たり前ですが、物件のこともおカネのことも、何もわからない。
さりとて、スカウトの誘いも断ったいま、球界に戻るという選択肢もない。不動産の世界に骨を埋める覚悟で、ゼロから出発しよう。そう思いました」
そうして細見が選んだのは、役員を退任し、一営業マンとして現場で汗をかくという道だった。
「始めはドラ1というプライドを捨て切れない自分の傲慢さが邪魔になりました。野球の世界は、『俺が、俺が』と自分の才能をアピールするのが仕事。
活躍すれば、周りがちやほやしてくれる。でも、営業はお客様のご意向が一番大切。『頭を下げて、おカネを稼ぐ』ということがこれほど難しいとは思いもしなかった」
細見は現場を統括する立場になった今でも、人手が足りないときは自ら内覧の案内をする。
心の支えになっているのは、大学時代、前出の布施氏からかけられた言葉だ。
〈野球で優勝するのも大切だが、人生の優勝旗を手に入れなさい〉
「選手として輝ける時間は、人生のほんの一瞬に過ぎない。むしろ、長く続く『その後の人生』でこそ、勝者にならなければいけない。そういう意味だと思っています」
野球の世界で頂点を味わった人間が、いざ実社会に出てみると、何ひとつ満足にできない。その悔しさ、哀しみは相当のものだろう。
だが、そこから這い上がり、「人生の勝利者」となるためにもがく、かつてのドラ1たちがいる。
「週刊現代」2018年11月17日号より
ドラフトで入った人らは契約金もらってるから他のスポーツのやつらと比べりゃいくらかマシ
新人の給料も他のスポーツより高いし
高卒でいきなり1500万スタートとかいるからな
野球悲惨だなあ・・・これじゃ子供誰もやらなくなるわ
まともな親が子供にやらせるわけない
ドラ1で入ったときにもらえる契約金も大事にとっておけばそのあとの生活もしばらくは何とかなりそうだけどな
日本は野球以外の生き方を教えずに育てるから悪いんだよな
ここに出てる人たちはかなりマシな人達なんでしょ?
一瞬でも最高に輝けたらそれでいいと思うけどな
なんで哀しいんだか
プロで成功できなかったとは言え、
一度は巨額の契約金を手にして父ちゃん、母ちゃんにいい目を見させてあげられたんだからな
今は似たような境遇でもまともな就職先が無くてずっと地べたを這いずり回ってる俺やお前らより遥かに勝ち組だよ
契約金は退職金と考え全額貯金
まあ、そういう人はいないでしょうけど
>>60
船乗りになってくれ
船乗りなら肩肘壊してても大丈夫だから人がおらんねん 
(出典 takaoka.zening.info)
>>60
警官に転向したのは近年チラホラ見かけるけど
一昔前は30過ぎたらバイトすら見つからない状況だったが
最近は50でも仕事そのものはすぐ見つかるからな
給料待遇はともかく絶対的な年齢の壁はないから
飯食ってくだけならどうにかなりそう 
(出典 so-amc.com)





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